臨床の知とは何か
中村雄二郎著 岩波新書
菅野先生の書棚から、お借りした本書は、
科学の知と臨床の知を対照化して捉えながら、更に、臨床の知と医学的臨床、科学技術の発展が、医学的臨床に及ぼす倫理問題に触れる。
私の臨床現場である、教育に転化して、考えながら、本書を読み進めていくと、本書が述べている科学の知と臨床の知にある差異が見えた時、私の臨床へのこだわりを、後押しするようなセオリーの存在に納得しながら、私が向かうコンピュータを活用した人間の認知開発研究にも、科学的医療と医学的臨床との間にある生命倫理のような課題が、発生するのだろうかと、想像する。
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科学の知と技術文明は、20世紀後半のわずか40年の間でも、50年代のDNA二重螺旋モデル、スプートニク号打ち上げ、IC開発、60年代、通信衛星、カラーテレビ、遺伝暗号解読、70年代、散逸構造論、CTスキャナー、試験管ベビー、80年代、CD開発、カード式電話、エイズ・ウィルス発見、更に今日、宇宙量子論、インターネット…と発展を遂げてきた。
科学の知がもつ3つの顕著な特性と原理
- 普遍主義
デカルトの幾何学的な〈無限空間〉やNewtonの物理学的な〈絶対空間〉に典型的に見られるように、事物や自然を基本的に等質的なものと見なす立場
- 論理主義
分子生物学のDNA二重螺旋説による生命体の解明のように、基本、あるいは、出発点とし、事物や自然のうちに生ずる出来事を全て、論理的な一義的因果関係として成立しているとする立場
- 客観主義
脳科学によって、脳の高度な活動を諸々の連合野の働きからなる客観的なメカニズムとして解明し、治療に当てるような、事物や自然を扱う際に、扱う側の主観性を排除して、それらを対象化して捉える立場
これら、近代科学は、その発達過程で様々に展開し、誕生当初の明確な〈機械論〉的な性格は、その展開の中で、ソフィスティケートされる。
これに対し、臨床の知は、
- 宇宙論(コスモロジー)
場所や空間は、普遍主義のような無性格で均質的な拡がりではなく、ミクロコスモスからマクロコスモスのように、一つ一つが有機的な秩序をもち、意味をもった領域と見なす立場
- 象徴表現(シンボリズム)
文学上の象徴主義でなく、物事のもつ様々な側面を一義的でなく、多義的に捉える立場
- 相互作用行動(パフォーマンス)
工学的な性能でなく、行為する人と、それを見る相手、立ち会う相手の間に相互作用、インタラクションが成立していること
科学の知が仮説、演繹的推理、実験の反復から成り立つことに対し、臨床の知は、直感、経験、類推の積み重ねから成り立っている。
つまり、臨床の知は、経験と実践が重要であること…では、そのメカニズムは、何か?
経験とは、「能動的に」、「身体をそなえた主体として」、「他者からの働きかけを受け止めながら」振る舞うことである。
実践とは、各人が身を以てする決断と選択を通して、隠された現実の諸相を引き出し、理論を鍛えて、飛躍させることである。
それら、経験と実践は、自由の中にあるのではなく、ある拘束された場所的時間的な中にある。
また、経験は、日常性の中に埋没する危険性と、実践が、決断や選択を欠いて惰性的、形骸的になる危険性を孕んでいることに、注意する必要がある。
医学にしても、教育にしても、臨床現場では、こうした経験と実践の理念に基づいていることは、周知の通りである。
本書では、さらに、そうした臨床にある経験と実践の中にある技術について触れている。
一般的に人間の直接的な行為は、それ自体を目的としており、従って、行為とその目的が分けられないのに対し、道具や機械を仲立ちにした間接的な行為たる技術の場合は、制作活動はそれ自体を目的としておらず、従って、制作活動とその目的とが分離する。それ故、従来、長い間、技術は、その目的と分かれた手段性、善悪の価値に対する中立性が説かれ、技術的所産の善悪はそれを使う人間の使い方を問われてきた。
しかし、近代、技術的所産は、科学と機械を媒介にして、遺伝子操作、フロンガス、酸性雨からもわかるように、反生命的な帰結を生む。
技術とは、「手段ではなく、露(あら)わにあばく方法(仕方)である」
このハイデガーの新しい技術の考え方は、教育臨床の中で、コンピュータを活用した新しい認知開発教育のあり方を問われている気がする。
本書にある医学的臨床にある脳死、臓器移植とバイオエシックス(生命倫理)の問題のように、教育臨床での、新しい認知操作は、大きな倫理的課題に向かうことになるのだろうか。
教育臨床にも、既に、近代の科学的技術、例えば、インターネットをつかった新しい教育技術が、浸透していること。そこにおける倫理的課題は、教育の世界でもしっかり見つめていかなければいけないことなのだろう。