A先生とのティームティーチングでは、小学1年A先生のクラス40人の子どもたちのコンピュータ活用の学習活動を支援しながら、常に先生の行動や発話を観察する。先生のクラスの子どもたちは、いつも先生をしっかり見つめている。このことは、今年のクラスだけでなく、昨年度もそうだった。
「私のクラスには、アスペルガーふたり、その他の軽度が6人いるのよ…」
「先生、全然私には、判りません。みんな「普通」に見えますよ。」
「そうよ、私は、特別扱いしないから。障害と認めた時点で、彼らは、特別になるし、私がそうした態度をとることで、周りの子も特別視するんですよ。軽度は、いつか「普通」になるから、軽度であって、「普通」になれなかったら重度でしょ。重度の子どもたちは、やはり特別に手だてを考えなくちゃね。」
「すみません、私はよくわからないのですが、先生の指導をみていると、先生の普段の指導の中で、軽度の子どもたちを統制できて、軽度を「普通」にできると言うことですか。」
「もちろんそうですよ。軽度の子どもたちも、ほかの子も一緒です、差別はしません。特別変わったことはしませんよ。」
「でも、ひとりひとりの軽度の子どもたちの障害にあった指導をするのですよね。」
「その子だけの指導をすることが特別でしょ。そうすることはしませんよ。ただ、やさしい指導をします。」
「えっ、それは、「優しい」ですか。「易しい」ですか。」
「「易しい」です。軽度の子どもたちにとって易しければ、ほかの子どもたちにとってはもっと易しいでしょ。その易しい指導で、軽度の子どもたちもみんなについていかれるし、やれることの自信にもつながります。」
「先生、これから、軽度の子どもたちへの支援が学習指導員などによって始まろうとしていますが…」
「特別扱いするのではなく、「普通」の中で育ててあげることですよ。」
「それは、担任ひとりでできるのですか。」
「やらなければ、だれがやるのですか。自分のクラスのひとりひとりは、全員、私のクラスの子どもたちだから、私が責任を持ちます。それは担任として当然ですよね。」
「先生は、クラスのみんなを観ているのですね。」
「でも、私には、盲点があるのよ。右45度が死角なのよ。だから、なるべく、右45度から視点を落としていくようにしているの。」
…絶句。
***会話中、A先生は、障害という言葉を使うことを嫌う。軽度の子どもたちにあるのは障害ではないという気持ち。
A先生は、2年前から、特別支援教育の勉強を、独自でされてこられた。専門研修に参加したり、専門家を訪ねたり、先生の努力が影にあることを私は知っている。
それ故に、先生の言葉のひとつひとつには、重みがある。死角の話…、先生が自分の盲点を知り、自身の指導を常に省察していることに、感動する。
「普通」であること…発達障害をもつ子どもたちにとって、どういう指導や、支援がいいのだろう。
A先生の指導法に、解決の糸口がきっとある。それは、発話・発問であったり、見取りであったり、関わりであったり。
子どもたちひとりひとりを、知ること、見つめること、そして、ひとりひとりへの関わり…
実際、先生のこの「普通」に育てるという指導の中には、実に繊細に、先生がクラスの子どもたち、ひとりひとりに「ほめる」言葉をかけている。先生のもつその教育技術は、それをクラスの指導の中で、ひとりひとりに、さりげなくできている技にある。
先生の指導は、1年生でも、6年生でも変わらないと言う。
「そうね、でも悪いことをしたら、当然叱るわ。ただ、子どもたちに言うことは、「自信をもって、自分でやりなさい。私がいつでもついているから。見守っているからね。大丈夫よ。」っていうことぐらいかしら。」
自立のために…先生の子どもたちに対する接し方は、本当の意味の「優しさ」がある。
発達障害児のひとりひとりの個人を認めながら、「普通」に育てる。ノーマライゼーションに必要な、障害児と健常児の共生の中で、教師が持たなければいけないものを、A先生から教えられた。