夜通しの課題に向かう私を持ちこたえさせるのは、珈琲と、ネット上のホームページ。
このプロジェクトも終盤を向かえ、私の最終章「To Finish - or to Start Again」の翻訳で最後になる。
いつもながらの超過時間のお詫びのメールと共に、ヘルシンキの朝に、ファイルを転送する。
翻訳しながら、最終章にあった、Seppo Tella教授の思いが、何度も作業する手を止めた。
情報科学という先端技術にある新しい技術革新と共に誕生する教育システムや教育ツールに向き合うために、教育者としての心得が、教育者として、どこに立脚すべきなのか、しっかり謳われていた論文だった。
西村教授が、私たち西村研究室に求められていることは、きっとこの論文に書かれてある全てだったのだろうと、あらためて、この課題を与えた海の向こうの先生を想う。
心理学領域に学びながら、教育を見つめ、情報科学にある新しい先端技術が、子どもたちにどういう学びを提供できるのだろうか。本当に情報科学には、それを導くための手段として、有用性があるのだろうかと、方向性を見失い欠けていただけに、Seppo Tella教授の論文翻訳という先行論文の原著にある真理を見つめながら、内省できたことが、何より嬉しい。
そこには、(翻訳文から抜粋)
e-learningや、m-learningなどの接頭語を考えることは、難しいでしょう。ただ、厳密に言えば、それらは、まったく効果もなく、本質的ではありません。接頭語にある意味を掃き捨てて、もう一度、そこに構成されたその本質から、「学びと教育」という問題の核心に迫ることが大切です。教育を、遠隔教育でしますか、対面学習でしますか、それとも、フレックス学習でしますかというその教育システムを考えたとき、そこでは、接頭語の無意味な議論でなく、教育の根幹に向かって、明白にすべきことがあるでしょう。
私たちは、教授すること、学習すること、そして、学びとは、ということについての討論を、存分に発展させていくことです。皮肉なことに、私たちは、新種の革命的な技術、私たちの眼も心も奪うような道具に、拘束されています。ピカソがコンピュータについて、「答えを与えてくれるだけのコンピュータだったらいらないよ。」と言ったことを覚えています。モバイル技術はどうでしょう。やはり、答えを導き出すだけのものでしょうか。もし、そうであるならば、私たちは、もう一度、ツールや、アプリケーションや技術を払拭したところの、教育がもつ課題から考えていくことを始めなければいけないでしょう。
「教育の本質を見つめたところに、教育システムがある」
そのための情報科学の情報技術を考えていくことが、西村研に課せられた大きな課題なのだろう。
情報技術は、教育を見つめて、子どもたちを見つめて、使われて、効果があったところで、はじめて、その存在価値がある。
徹夜明けにしては、爽快な日…紫陽花が美しい。
Studying and the Three Cognitive Revolutions
M-Learning ~ Cybertextual Travelling or a Herald of Post-Modern Education?
Seppo Tella (University of Helsinki)
http://www.seppotella.fi
m-learningは、伝達手段や伝達習慣のようなJarvinen&Mayraが定義したようなデジタル文化の一事例なのでしょうか。
Johan Fomasによれば、社会の文化志向について、彼は、文化は、社会の先端にあるというより保障されたことであると考えます。文化は日常生活の中で、文化的、全てに、審美的な造物として、ますます明らかになっていきます。
デジタル文化は、情報社会、知識社会とよばれるものと、同様だったり、直接、それらを示すものでもありません。デジタル文化は、社会観の中で、その中心として接触や仲立ちとして、伝達手段や伝達習慣ととして、成り立ちます。なぜなら、慣れ親しまれた文化は、人生の中心的な、多様な構成要素だからです。(Jarvinen & Mayra 1999,17;Tella翻訳)
一方、みんなに、伝達手段や伝達習慣が共有されなかったり、採用されなかったりすることがあります。反対に、伝達手段や伝達習慣は、手順、組織レベルや、集合体の習慣を変化させたり、修正させたりすることがあります。すべての行為者の活動態度の課題は、行動の変化が心の変化であるという概念を意味していることです。個々のレベルでは、心の変化は、普通、いらだちや、怒りが表れたり、または、その人自身の行動や話すことの変容から、感じるものです。一般的には、認知された不満は、時間が経てば、軽減され、個人の中で、習慣づけられ、ついには、ものや事象の改名や、概念分析の意味づけから、相互間の関係性を再現することの意味づけによって、概念づけや、新しい概念形成を可能にする能力を引き出しているのかもしれません。
環境もまた概念変化をもたらすものであることは、知識として特徴づけられています。(e.g., Huberman 1985)これらの見解は、人が新しい知識を構成しようとするとき、行動という環境が関係しているとしています。状況における変化を導いたり、既成概念と結びつけたりすることは、認知過程の要因として重要なことである。そして、このことは、私たちが、より向上するための問題解決をはかるために、私たちの活動や学習の環境や手段を切り開く手助けとして、現実の中での文脈から、理論上の知識を結ぶためのものであります。
冒頭のこの論文の問いかけ、m-learningは、cybertextual travelingか、post-modern educationの使者なのかについて、m-learningは、どちらの理由以上のものです。cybertextualな空間の旅行もできるし、同時に、ポストモダニズムな教育の未来の徴候でもあります。しかし、それでは、納得する答えになっていません。私たちは、もっとこの疑問に、向き合うことが、必要です。
まず、それらが誕生したことで、特別な成果となる技術はなんでしょうか。「素晴らしい発明?それは何?」これがまず、疑問です。m-learningは、確かに、素晴らしい。私たちは、既にはじめています。しかし、長期的展望の中で、私たちをどこかに導くための方向性があるかどうかを判断することは、難しいでしょう。
では、なぜ、m-learningなのか。どうして、お洒落で、流行っているのか。どうしたら、現代のこんな突飛な現象をまた呼ぶことができるでしょう。e-learningは、すでに、医学では、常用的で、企業やビジネスでは、たくさんの宣伝戦略にもなっています。同様に、ヨーロッパ連合では、la neige d'antanという最新のヨーロッパプログラムがあります。既成価値を疑うことなく、learningの接頭にeやmをつけることで、価値づけをはかります。2001年、訪れたロンドンの書店で、e-learningやそれ自体の可能性の本を求めましたが、1970年代のタイプレコーダーやプロジェクターについて出版されているだけでした。Eは、明らかに曖昧で、時代遅れです。どうして、そのアルファベットの文字を使ったのでしょう。次のステージはg-learningでしょう、次世代として一種のグローバルな学習です。でも、私たちは、インターネットが世界の4%しか、まだ繋がっていないことにも反論すべきかもしれません。u-learningはどうでしょう、ユニバーサル学習は?私たちデスクの上に、あたかも大きなペンがあるかような、見えない情報技術によって、情報化社会の中におかれることの危惧を抱いたJoseph Weizenbaumが、1970年代唱えたユビキタスコンピューティングの発想に、近づいているかもしれません。Uniwearやコンピュータ内蔵の衣服は、すでにこの発想の製品です。さらに洗練された衣服は、技術は見えることなく、私たちを危険から守り、回避します。さあ、想像して下さい。このuni-learningが少なくともフィンランド人にどんなふうにアピールしてくるのでしょう。万人に、言葉を楽しませ、寝ているときにも、学べるなんて!(なんて、勤勉なフィンランド人向けではありませんか。)
最後に:
接頭語を考えることは、難しいでしょう。それらによって、人々にどのようにアピールされているかということ、注意を促しているかと言うことなのでしょう。ただ、厳密に言えば、効果のない、本質的でないことです。哲学者がそれを扱うとしても、結果的には、本質ではないとことに掃き出されるでしょう。なぜ、m-learningか、端的に学びとは何か。学びとは何かを考えていったとき、なぜ、e-learningなのか。接頭語にある意味を掃き捨てて、もう一度、そこに構成されたその本質から、問題の核心に迫ることが大切です。学びと教育について。遠隔教育では、少なからず、人々の心の中で、既にこの変革は起きています。教育を、遠隔教育でしますか、対面学習でしますか、それとも、フレックス学習でしますか。このことは、接頭語の議論でなく、教育の根幹に向かって、明白にすべきでしょう。
そして、私たちは、教授すること、学習すること、そして、学びとは、ということについての討論を、存分に発展させていくことです。皮肉なことに、私たちは、新種の革命的な技術、私たちの眼も心も奪うような道具に、拘束されています。ピカソがコンピュータについて、「答えを与えてくれるだけのコンピュータだったらいらないよ。」と言ったことを覚えています。モバイル技術はどうでしょう。やはり、答えを導き出すだけのものでしょうか。もし、そうであるならば、私たちは、もう一度、ツールや、アプリケーションや技術を払拭したところの、教育がもつ課題から考えていくことを始めなければいけないでしょう。