「『問題行動の操作的定義』について、説明して頂けますか?」
教育臨床査定特論の講義中、突然、根建教授から、振られ、それまで、ノートPCに向かって、講義memoをとっていた私は、教本を急いで、めくり、焦る…
「えっーと、操作的定義ですね。…問題行動児と健常児がいたとき、その問題行動児の問題に関する行動が健常児に対して、どれだけ差異性があるかを考えたとき、…。」
話終わって、先生を見ると、ニコニコっと、優しく笑われた。
「専門的な用語の羅列の多い中で、その人がどれだけ理解できているかを知るには、しゃべらせるのが一番いいんですよ。その人が、どれだけの事例をもって、考えられるか。よりわかりやすく、相手に合わせた事例で、説明できるか。そして、その説明から、我々教授者側は、その人の理解度を一方で、はかるわけです…。」
「専門家が、まったくそのことについて、知らない人たちに、話さなければならないとき、より相手に合わせた事例をもってくること。専門用語の理解は、実際、事例をもつことで、より深まるんですよ。」
確かに、領域を超えた学びにあって、苦慮するのは、その領域の専門用語の習得と、理解。
教育学での、「見取り」は、心理学では、「見立て」であることを、最近何となく感じてきた。こうした同義の言葉でも言い方が違ったり、子どもたちを見る考え方の違いに、戸惑うことも多い。
領域を超えた様々な考え方、そこにある理論と、理論に立脚する研究…
例えば、習熟度別の授業において、達成度の上位、中位、下位のうち、下位クラスの子どもたちへの学習アプローチに関する課題。
私が心理学領域での、論文研究と授業観察からわかったこと。
下位クラスの子どもたちの一部もしくは、多くは、認知過程において、上位クラス層とは、全く違う処理過程をもつ。その子どもたちに施す学習アプローチを、質的なもの(例えば、教授法を代える、学習環境を変える、コンピュータを利用する等)で考えるか、量的なもの(物理的な学習時間、学習量等)で考えるかという、2つのアプローチを上手く、混合しながら、学習プランを考える必要性がある。
これは、心理学領域にある発達課題の子どもたちの多くの研究から、認知過程の発達障害は、遺伝的な障害として、そして、個にある環境要因によって、個々に違った形で、表出されること、だからこそ、一人一人の個別の学習アプローチが必要になる。
この子どもたちへの支援は、社会における差別や偏見のない、ノーマライゼーションの意識下で、社会適応能力の育成、例えば、コンピュータの操作性を教えるなどの技能教育の必要性。その子どもの、今ある現状だけでなく、生涯の発達過程を考えた中で、どのような支援がよりいいのか、考える必要がある。
一方で、先日、中学の校長先生が見学された習熟度別でない少人数制学習のありかた。教育学からの論点。
佐藤学先生(東大)の唱える教育学習論に通じるもの。
□学びの共同体
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/gakuryoku/news/20060529org00m040033000c.html
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/lab/ichikawa/johoka/2005/group4/manabus1.htm
私自身もネットワークを通じた協調学習の有用性を感じてきたから、心理学を学ぶまでは、確かに、佐藤先生などの教育学習観にも傾倒してきた。
ただ、教育学、教育工学、心理学と、いろいろな領域をまたいで、いろいろな理論に接していくと、そこに立脚した研究がありながら、より、子どもに向き合っている理論や実証研究は、どこなんだろうと、そこにある基準を考えずにはいられない。
ノーマライゼーションという社会の健全なシステムの上で、区別(差別ではない)された、その子にあった学びの提供が、自己確立につながり、そこに個の存在の意義を見つめられたとき、はじめて、協調学習の良さに繋がるのだろう…
根建教授の今日の講義で取り上げられた「努力逆転の法則」
「人間の心は、意識と逆に流れているから、その意識を無理にコントロールしようとすると、逆転する。余計、悪くなるんです。不安は、受け止めること。その中で、どう行動できるか。不安を抱えながらも、行動を続けること。そこで、人は不安をコントロールする方法を学んでいく。このことが大切なんですよ。」
ありのままでいいということ…ありのままを受け止めること…その中で、行動すること。
学習発達障害のある子どもたち、特にわからないことを自覚しながら、どうしていいかわからない、心理テスト(WISC-Ⅲ)でIQ70前後(平均100)の子どもたちへの支援。不安のコントロール。
「自然体で…」
先生からのメールにあった言葉。根建教授の講義とこの言葉が繋がって、この言葉の意味に、深さを感じる…。
自然体でいられることに、価値を見いだせるそんな社会であること、それが本当のノーマライゼーションの社会なのだろう。
いろいろな領域から、子どもたちを見つめたとき、ふっと、この「自然体」という言葉が、輝く…
子どもたちのひとりひとりにある、自然体を、どれだけ、教師たちは、見つめてあげることができるんだろう。
~07.06.16教育臨床査定特論~